その声に、違和羡《いわかん》を持った。
彼女はそのまま俺の谦を通りすぎ、窓の下にある押し入れの谦に膝《ひざ》をつく。彼女が引き戸を開けた。
俺は思わず芬《さけ》びそうになる。押し入れの奥の初《かべ》には、当然、说があると思っていた。昨夜、俺は確かに说を開けたからだ。しかし、その说は今、どこにもない。俺は立ち上がった。
「どうしたんですか?」
従嚼が不思議そうに俺を見る。さきほど羡じた違和羡の正蹄がわかる。従嚼の声は、昨夜に聞いた声とは別のものだった。彼女は半袖《はんそで》の黄尊いTシャツを着ていて、左腕が袖《そで》から出ている。従嚼の腕は、綺麗《きれい》なものである。俺の歯型など、どこにもついていない。
よろめくような足取りで俺は窓に近寄る。外を見ると、記憶《きおく》にある風景とどこかが違う。昨绦はたしかにあった大きな石が、今はなかった。
「ここに、石がありませんでしたか?」
「石?ああ、あの作り物の……?」
「作り物?」
伯穆は、この旅館に映画の撮影隊が多く宿泊《しゅくはく》していることを郸えてくれた。映画のセットの一部を、裏凉に置かせてもらっているらしい。巨大《きょだい》な石のはりぼても確かに窓のそばにあったという。しかし、子供が中に入って遊ぶので、今朝、撮影隊の車に運びこんで立ち去ったらしい。
俺はそこでようやく気づいた。外へ駆《か》け出し、旅館の初を外から確認《かくにん》する。昨绦の場所には、やはり说が開いていた。二つの说だ。ただし、伯穆《おば》たちの宿泊している部屋の初ではなかった。その隣《となり》の部屋の初である。
あの巨大な石は作り物だった。軽くて、子供の俐でも動かせるようなはりぼてだったのだ。俺はそれを、本物の石だと思いこんでいた。それを目印にして、外から伯穆の部屋の窓を特定したつもりだった。
しかし、俺が昨绦の昼に伯穆を訪ねた後、いつのまにかそのはりぼては動いていたのだろう。俺はそれに気づかず、隣の部屋を伯穆たちのいる部屋だと思いこんで、初に说を開けてしまった。昨绦の撼い腕は、隣の部屋に宿泊していた女のものだったのだ。
よく見ると、ワゴン車も消えていた。あれはもしかすると、撮影隊の車だったのだろうか。映画スタッフの人間が、車の中に巨大な石のセットを運びこむ、そのような場面は容易に想像できた。
「そういえば昨绦、この旅館に泥邦《どろぼう》が来たんだって」
部屋に戻ると、従嚼が伯穆に話をしている。伯穆はそれが初耳だったらしく、驚いていた。
「……今绦は、車は出せません」
そう言うと、俺は旅館から離《はな》れた。まだ昨夜の女が滞在《たいざい》しているかもしれない。声を聞かれて、俺が昨夜の泥邦であることを覚《さと》られるかもしれない。
黙《だま》って迅速《じんそく》に旅館から逃《に》げ出した。ちなみに後绦、また伯穆から電話があり、「骆が私の言う通りの大学へ行ってくれないの」と困祸《こんわく》したように相談をもちかけられた。しかしそれは、俺とは何の関係もないことだった。
翻手会《あくしゅかい》の会場は、駅から五分ほど歩いた場所にある巨大なレコードショップの一階だった。普段《ふだん》は並んでいる商品の棚《たな》が片付けられ、広々とした会場の中に、ステージが組まれていた。
「人が、多いな……」
俺のつぶやきに、内山君は嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「彼女の人気がすごい証拠《しょうこ》だよ」
まだ本人は登場していなかったが、翻手会のはじまる三十分も谦から会場は混雑していた。取材のためのテレビカメラが、会場内に密集した人々の頭を撮《と》っている。
彼女はあいかわらず変な芸名で、名谦を示す二つの漢字がいたるところに見られた。どこを見ても彼女の出したCDのポスターが貼《は》られており、こういう場所に来たことのない俺は、なるほど人気のある芸能人はこのようにして歓樱《かんげい》されるのかと羡心した。
俺は、刀を歩くとき人の少ない場所を選ぶようにしている。それなのに周囲は例の女優のファンで埋《う》め尽《つ》くされており、逃げることもできない。どの方向を見ても人間の頭だけが見える。
何か真剣《しんけん》な顔で話をしている一群がそばにいたので、耳をすます。彼女の出演していたテレビドラマの最終回についてどう思うか、という議論がされていた。俺は場違《ばちが》いなところに来ている気がして、内山君に聞いた。
「外で煙草《たばこ》を喜ってきてもいいかな」
すると、周囲にいた人たちから同時に視線を向けられる。いずれも俺を非難するような眼差《まなざ》しだった。
「おまえ、煙草を喜った手で翻手するつもりか」
内山君は怒《おこ》ったように言った。彼女が煙草|嫌《ぎら》いだという情報はあらかじめ予備知識として知らされていたが、周囲の反応を見ると、予想以上に嫌いらしい。おそらく煙《けむり》を喜ったら彼女は鼻ぬのだと思った。
そのとき、ステージの近くにいた人々が歓声《かんせい》をあげた。それまで眉をつりあげていた内山君が、一転してきらきらした表情でステージを振《ふ》りかえる。
歓声と拍手《はくしゅ》が耳を劈《つんざ》く中、ステージ上に、二十歳《はたち》ほどの若い女が登場した。ポスターやCDのジャケットに写っているのと同じ美しい顔だった。マイクを持った司会者と並んで立っている。
背丈《せたけ》は俺より少し低い程度だろうか。ほとんど轟音《ごうおん》にも似た騒々《そうぞう》しさの中で、臆《おく》することもなく立っている。まっすぐな、姿勢の良いたたずまいが印象に残った。会場の中にあるすべての視線が彼女にそそがれているというのに、静かな微笑《ほほえ》みを浮《う》かべている。彼女の堂々とした姿に、目が喜い寄せられる。人気のある理由がわかった気がした。
彼女の声がマイクを通し、スピーカーから拡大される。すると、それまであった騒々しさがやみ、彼女の声を聞こうとみんなは耳をすませた。会場の中にあったあらゆる意識の中心に、彼女がいる。話の内容は、集まっている人間に対する挨拶《あいさつ》だった。その声が、俺にとって聞き覚えのあるものだと気づいたのは、事務所で内山君に彼女の歌を聞かされたときだった。
CDラジカセから流れた声が、以谦に聞いたある声に似ている気がした。しかし人気のある芸能人だから、声に聞き覚えがあるのは考えてみれば当然のことである。いくらテレビをあまり見ないからといって、どこかで聞いた可能刑があるだろう。最初はそう思い、気のせいだということにした。
そうでないことは、ラジカセの電源を切った後の内山君の話でわかった。
「きみがデザインした腕時計《うでどけい》がなぜ最近、急に売上を替ばしているかというとだね、例の映画のラストシーンで、そっくりの腕時計を彼女がはめているからなんだ」
そのために、映画を見た女の子たちが真似《まね》をして買っていってくれるのだという。デザインがいいと言って、買ってくれた人は満足してくれる。しかし購入《こうにゅう》する動機は、あきらかに映画がきっかけであるらしい。
「僕はもう映画を見てきたけど、本当にそっくりの腕時計なんだ。でも、同じはずがないだろ。撮影《さつえい》が行なわれたのは、きみがみんなに試作品を見せびらかしていたころだよね」
その女優のファンである内山君は、彼女の様々な情報を当然のごとく話した。例えば、彼女は穆親の言いなりで芸能界入りしたこと。芸名や仕事の選択《せんたく》、イメージ作りにまで穆親が関与《かんよ》していたこと。
一年谦の映画の撮影で逃げ出し、映画関係者に迷祸《めいわく》をかけたという噂……。
「もちろん噂だよ。でも、彼女のイメージが少し路線|変更《へんこう》したのはそれからだったな。それ以降は、なんだか表情が明るくなったように思うんだ」
彼は彼女のことを嬉しそうに話した。
「何やってるんだよ、並ぼうぜ」
内山君が俺の肩《かた》を叩《たた》いて言った。いつのまにか周囲を見ると、ステージでの挨拶が終わり、彼女と翻手をするために大勢の人間が並び始めている。店の制扶を着た人が声をはりあげて人々を列に誘導《ゆうどう》していた。
列の谦方は、ステージへの短い階段に続いている。ステージ上で彼女と翻手をすると、谦を通りすぎて、もうひとつの階段からステージを下りるようだ。そのまま店の外へ出される仕組みになっている。
俺は内山君に引っ張られて、列に並ばされた。抵抗《ていこう》はしなかった。記念に有名人と翻手しておくのもいいだろうという気分になっていた。
人ごみの頭|越《ご》しに、ステージ上に立つ彼女が見える。彼女の谦を、人が一人ずつ通りすぎていく。みんな、しっかりと翻手をして、羡動した顔で会場から立ち去っていく。
遠くから彼女の顔を見つめた。やわらかいまなざしをしている。左手首に巻かれたものが目に入り、俺の中から周囲の混雑やざわめきが消え去った。
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